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しずちゃんにっき
日記はmixiに移行しました。投資関連の記事はこちらに書いていこうと思います。
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書いてる人はこんな人
なまえ:
桜海 枝杜来(さくらみ しずく)
セックス:
生まれた日:
1985/04/22
こんな人:
なんだか金融と縁が深い20代女子。信販(審査)⇒信販(督促)⇒銀行⇒投資顧問⇒信販(審査)と辿ってきました。笑。
文才がある、というか時々神様が降臨します。展示室に詩文を展示してます。
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人間の死体が腐らなくなっているらしい。

人間は、買ったもの、食べたものでできてる。

現代の食べ物にはあまりに多くの添加物が入っていて、
その中には大量の防腐剤が入っている。


それを接種する人間の体は、死んでも腐りにくいらしい。


例えば野良ネコがその短い生涯を終えた時、
カラスがやってきて、その屍骸を片付ける。
あっという間だ。

でも、人間はどうだ。

こんなにもありふれているカラスさえ見向きもしない。


そのうち死ななくなるんじゃないの。本当に。
脳から人格データをスキャンしてさあ。
デジタルの世界で。

ヒトだった生き物はこうやって、0と1の世界にどんどん近づいていく。

どこまでいくんだろう。


フランスのおばかな村では死亡禁止条例なるものが出されたし。

どんどん増えるニンゲン。
腐らない屍の山は、どれだけ増えるんだろう。
いずれこの惑星の表面を埋め尽くすぐらいになるのだろうか。


なんて、小娘の生意気な戯れ言。
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自分が一番どうでもいいな。

自己犠牲?

そんな格好いいもんじゃない。
ただ、愛せないだけ。


でも、愛してるを誰かに伝えたくて。


大好きな人は周りにたくさんいるけど、
この手は、この両手はあんまりにも不器用。


ありがとうございます。

いつもいつも、感謝しています。
誰にも言えない秘密がある。

口が裂けても言えないような、汚い過去がある。


大丈夫。
何にせよ自傷だ。
死ぬ程のこっちゃない。


たとえばわたし一人死んだところで、
何が変わるわけでもない。

ただ、苦痛も悦びもなんにもなくなるだけ。

そして、苦痛を与え、
多額のカネが動く。


カネは汚いもんだ。
幼い頃からそう教えられてきた。
そう学んできた。




……だからこそ、金融の道を選んだ。

というと格好を付けているように聞こえるかもしれない。

汚いものだからこそ、目を逸らしてはいけない。
そう思ったんだ。



リスカと変わらない自傷行為。


死んで、

汚いカネがついて回る。


それだけ。
改変自己、才能改変世界。
(自分を変えれば、世界も変えれる)

Xiangの日記より。
これに疑問を覚えたわけですが。


これはわたしの解釈だと、
「世界変えるにゃまず自分から」
ってニュアンス。


自分を変えれば、世界も変えられる。
だと、「改変自己、就能改変世界。」かなぁ、とかぼんやり考えたりしていた。

実際こんなこと言ったらすっごく大げさなんだけどね。



でも、自分を変えると、今まで見えていた景色が違ったものに見えるだろう。
ってことは、少なくとも主観的に考えて世界は変わる。


世界って難しい。
例えばわたしが死んで、何も考えない、「何もない」に戻っても。
世界はまだ存在していて、
相変わらずくだらないことでもめているんだろう。

わたしはかつての世界を知らないし、100年後だって知ることはできない。
歴史は知っているけど、わたしはそれを見ていない。
それは、ただ、教育の賜物。知識として知っているだけ。


本当に、脈々と受け継がれてきたのか。
それは、見た人にしか、わからない。


一人の人間の手の届く範囲なんてたかが知れてる。
そんな、囲いの中の生活なんだ。
見えるものくらい、見方変えたっていいじゃないか。



目に見えるものさえ壊れてくような世界で、

信じられるものは最後は自分しかいないんだから。
せめて、


目に見える、触れられるものだけでも、大切にしたい。
ただの自己満足でも、いいから。


見えない永遠なんか求めなくていい。
ただ、ここにある、愛しいものを護っていきたい。





……愛せるものなんてないけどな!



相変わらず調子よくないです。
久しぶりに膀胱炎なったし。
まだ変な出血したりするし。
冷えるし。
寒いけど汗かくし。
体温が上がったり下がったり。
皮膚もボロボロ。
むくみも極限状態。

夜は相変わらず眠れない。

誰か愛して。
愛させて。
昔、犬を飼っていました。

ミニチュア・シュナウザーと、シベリアンハスキー。

母が、祖母の姉から譲ってもらったシュナウザーの名は、レオ。
わたしよりも年上で、わたしも弟も幼い頃は、彼に遊んでもらった。
彼は母を愛していたし、母の子である姉弟も愛してくれた、
噛み付かないし、無駄吠えもしない。温厚で、優しい性格。

本当に賢い犬だった。

昔むかし、わたしがまだ生まれる前。
母のオウムが逃げ出したことがあった。
それを捕まえたのは、彼。
噛み付いたりしないで、オウムが怪我をしないように、逃げないように。
地面に抱え込むようにして、飼い主を待った。




わたしが小学校に上がって、彼も年を取った。
やがて、病気が判明した。
尿道結石、それも、重度の。

夜中に心配で、何度も彼を見に行ったことをよく覚えている。
いつ、大切な家族が、大切なお兄さんがいなくなってしまうのかと。

それは、恐怖だった。


あるとき、ハスキーの仔犬を引き取らないかという話をもらった。
4頭産まれて、貰い手がない最後の子だった。
両親と、弟と、わたしと、みんな賛成した。

名前は、すぐに決まった。
当時弟が大事にしていたハスキーのぬいぐるみが、ベルという名だったから。


ベルと呼ばれるそのオッドアイのやんちゃなハスキーは、先住犬の寿命を確実に伸ばした。

やんちゃな子犬につられるように、レオも元気になった。


庭を駆け回り、一緒に散歩に行って、川で泳いだ。
わがままで食いしん坊で、変食。何でも食べる。
遊ぶのも大好き。
まだ幼い姉弟の、世話の焼ける弟。


でも、やっぱり、14歳という高齢で。
あの日、レオは、他界した。

小学校の野外学習、そのオリエンテーションの日。



わたしは、不思議に予感していて。
彼が苦しんでいる間、ずっと動悸がしていた。

大急ぎで帰宅したら、予感が的中していた。

たくさん、たくさん泣いた。
涙が枯れるくらい。
それから、いっぱい「ありがとう」を言った。


そう、不思議な死の予感を、確実に感じたのは、あの日。

昔はね、枕を南に、ベッドを置いていた。
家族4人分、並べて。


目覚めると、それが北向きになっている。

それはお釈迦様が教えてくれる、死の予感。

覚悟しなさい、と。


一番初めは、熱帯魚だった。

北枕で目覚めてから数日後、水槽のヒーターが暴走した。
エンゼルフィッシュ、ネオンテトラ、グッピー、コリドラス、プレコ。
全滅した。

不気味な予感が現実のものとなったわたしは、ショックを受けた。

もう二度と、起こりませんように。
ひたすら祈った。


次は、桜文鳥。
また、北枕の日から数日後。
今度は、アオダイショウが家にやってきて、丸呑み。

なんていう苦痛だったろう。
なんという恐怖だったろう。


わたしも、からだが震えるのを感じた。


そして、レオの死。

彼が他界して、1年。
後を追うようにベルも世を去った。

癌だった。

4歳の誕生日も迎えられないまま、前夜には、すべてを悟ったように中空を眺めていた。

そして、翌朝、冷たくなっていた。

報告に来た祖母の声を、今でも覚えている。



二頭は、今も名古屋市内の動物霊園で眠っている。
時々、お参りに行く。

最近行けていない。
落ち着いたらまた、大好きだったジャーキーとビスカルを持ってお参りに行こう。




あれから数年が経った夏の日。
わたしが一番荒んでいたとき。
学校にも行けず、人も信じられず、なんにも楽しくない。
通院と勉強だけの毎日。
空虚で、苦痛で、なにもない。ただ暑いだけだった夏のある日。

一匹の猫が、家を訪ねてきた。

玄関で、家の中に向かってか細く鳴いていた。

それが、今の通称駄猫、にゃおちゃんです。

彼女は、本当に賢い猫。


当時はがりがりに痩せていて、与えた食べ物を嬉しそうに食べた。
それから彼女は通い猫になった。
毎晩夕飯時になると、玄関に座り込んで網戸の向こうに呼びかける。


だんだんとお腹が大きくなって、お腹に赤ちゃんがいるらしいことが、わかった。
「家で産まないでね」と繰り返し言ったのが、通じたんだろうか。

お盆のある日、ご飯を貰いにきた彼女は、仔猫をくわえていた。

まだ目も開いていない、ネズミ色の仔猫を、たった一匹。
痩せた彼女には、一匹が限界だったのかもしれない。

慌てて昔、わたしと、弟と、犬と、代々、「小さな守るべきもの」が寝かされたカゴが用意された。
プラスチックの、ピンク色の大きなカゴ。
タオルやらいらない毛布やらを敷いて、仔猫を安心して育てられる場所を確保した。

秋になって、大雨が降った。
近所の子どもが、じゅにあを野良の仔猫だと勘違いして連れて行こうとした。

いろんなことが起こって、

一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、親子の性格もわかってきた。

彼女とその子は、奇妙なほど、レオとベルに似ている。
家族の中で「お盆に、レオちゃんとベルちゃんが帰ってきたんだ」という結論に達した。

そうじゃなくても、あの二頭が愛してくれる人間がいる家へ導いたに違いない。
にゃおちゃんは、確信を持って家の前で呼びかけてた。
「うちに来られて、本当に幸せだ。」
家族は口々に言う。



まだまだ世話の焼ける姉弟を、遊び足りない弟を連れて。
様子を見に来てくれた。きっと。
猫の姿になって。


ありがとう。


もう少し、いっしょにいてね。

あの子たちも、もうすぐにおばあちゃん、おじいちゃん。
じゅにあも、ベルちゃんの倍、生きたことになる。


でも、もう少し。一緒に居させてね。

またお別れしても、またきっと、家にきてね。
また一緒に、幸せに暮らそうね。




愛されていた同居者が、猫の姿を借りて戻ってくる。
友人のひとりも、同じことを言っていたよ。
愛していたハムスターが他界して数年、つらいつらい時期に、三毛猫になって帰ってきたって。



猫は不思議な生き物だって言われる。
わたしは、ゴロゴロと喉を鳴らしてすり寄ってくるシマシマが、幸せであればいいと思う。
最近、就活やらバイト探しやら授業やら、やけに忙しい。

忙しすぎて忘れていたけど。


そうだ。わたしは詩文屋だ。


最近、あたまの中にぐるぐる、余計なことばとか、ことばにもできない、抽象的な何かが渦巻いていることに気付いた。

そして、思い出した。






わたしにとっての創作とは、たぶんCoccoと同じ。



「歌も誰かを救おうとかじゃなくて、自分が楽になるためにやってるだけ。」



あっちゃんにとって、歌を歌うことは、排泄に近いんだって。
言葉と音と、いっしょに出てくる。
寝ようとしてるのに、頭の中でぐるぐるして眠れないから、「はいはいはいはい」って起きて、
歌って、
朝になって覚えてたらネギさんに教えて、それが、わたしたちに届く商品に、なる。


たぶん、あっちゃんの夜は、もっともっと、いろんな思いに塗れていたんだと思う。



わたしは、あっちゃんほど器用でもないし、才能も、ないけど。






ぐるぐる、渦巻いて、堆積して。
質量を持たないはずなのに重たい、その断片たちは、わたしを悩ませる。

頭を重たくして、
視野を狭めて、
時々。断片は幻をも見せる。



あるとき、それが、決壊して、


わたしの頭に、言葉の洪水になって、溢れてくる。


幸いなことに、溢れてくるのは文字ばかり。

わたしは、あっちゃんほど器用でもないし、才能も、ないから。


でも、わたしの手は不器用で、あまりに鈍い。



手作業で文字を一つ一つ紡いでいては間に合わない。
それくらいの、激流。



思いは、言葉は、指の間をすり抜けて、どこかへ流れていってしまう。
携帯電話を手にしているときも、同じ。

がんばって覚えていようとするんだけど、


言葉があふれてくるときは、他のことを考えていたりして。

間に合わない。





家にいたら、パソコンに向かって、ひたすらそれを書きとめ続けられる。


それでも、間に合わないときだってある。



あっちゃんと同じように、真夜中に決壊することが、多くて。



わたしは常に、枕元にパソコンを、置いてる。





もうすぐ、だよ。



もうすぐ、いっぱいになる。


少しずつ、少しずつ。




体温の高さと、肩を走る寒気。



決壊するときは、いつも、体にもこんな変調を来すんだよ。
さあ、やっと日本語のことを書きますよ。


もうすぐ退職するけど、会社は夜間の指導係もしています。
でも夜って忙しくて、あんまり指導に時間割けない。


もともとはお客様とお話する内容って、口伝えだったんだけど。

そんな時間勿体なくって、作っちゃった。スクリプト。


だって、5人同時指導とかで口伝えは無理。


名前とか住所とか金額とかは空欄にしてあるから、
お客様ごとにそこだけ当てはめて読めばバッチリ☆ってやつ。


結構好評だったのよね。あれ。
昼間の新人派遣さんとかに、課長が勝手にコピーして渡していた、らしい。

法改正とかに合わせて何度も改稿を繰り返した自信作。



まあいいや。




わたしのスクリプトってさあ、「〜のほう」とか「〜でよろしかったでしょうか?」って一言も入ってないのよ。ら抜き言葉も。

でも、「〜のほう」も「〜でよろしかったでしょうか」も言わない子、一人もいなかったね!


おもしろいなあ。



さて、本題。



別に、日本語が変わりゆくことに反対なんてしない。
わたしが使わないのは、鬱陶しいのが嫌いだから。それだけ。


だって、そうやって曖昧に言わなくたって、じゅうぶん丁寧な言葉遣いってできるのよ。

あえてまどろっこしい言い方しなくても、いいの。


あ、あと。「〜のほう」とか「〜でよろしかったでしょうか」とか文字にして書くとうざい。あと文字数食うからスペースが勿体ない。




日本語が乱れてるなんて、変な言い分だと思う。

言語なんて変わりゆくものなんだから。


だって、現代日本語が確立して、まだ数十年なのよ。
嘘だと思ったら明治時代とかの小説読むといいんだわ。
不可解だから。


言う程長く続いていないんだからさあ。

日本語の乱れとか、美しい日本語とか、そんなん言うほうがおかしいと思うなあ。



用法や意味だってそう。

正しく使える人が少数なら、それって正しいって言えるのかな。



極端かもしれないけど、「卑」の時は弥生時代には真逆の尊いって意味だったし。

時代を経て、已然形とか係り結びもなくなった。
古典文法なんて、もう別世界の言葉でしょう?

「情けは人のためならず」これも何十年かしたら、辞書に載る意味が変わるんじゃないの。
かつては「情けをかけると自分に返ってくるから相手のためにはならない」という意味だったとか書かれるの。

江戸時代には「は行」の発音は[f]音だったしね。



今は、いろんなものが文字として、データとして、形に残せるから。
変に、古いものも残っちゃうんだよね。




日本語が乱れているんじゃないのよ。

言語は常に変わっていく。





だいたいさあ。
日本語が乱れてる乱れてるって、言う人に限って標準語、ちゃんと理解してないんじゃ、ないの?
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